昭和46年03月22日 朝の御理解
御理解 第18節(おかげの泉第20号)
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生れるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
お道の信心をさせて頂いて、この十八節の御理解を頂きますと、限りない希望が湧いて参りますよね。本気で信心の稽古をさせて頂こうと言う人達には、もうここが目当てである。それに向かって精進させて頂く、限りない希望と言うものが湧いて参ります。おかげを受けると言う事であったら、神様にならんでもと、おかげさえ頂ければと言う事になります。けれども、信心の稽古をさせて頂くと言うと、やはりここが目ざしです、言うならば生神様になる稽古なんです。金光様のご信心とは。
しかも、この方ばかりではない、ここに参っておる人々は皆、神の氏子じゃ生神とはここに神が生まれると言う事であって、そういう境地を開いて行く、有難うして、有難うしてと言う、境地を開く。そこで本気で信心の稽古をさせて頂こうとする者にとっては、ここのところを、どういうふうに頂き、どういうふうに稽古をさせて頂いて行ったらよいかと、言うような事を聴いて頂きたいと思います。
昨夜御祈念が終わりましてからです。山田先生ていた昨日二日ですか一昨日からですから、一昨日昨日みっちりご結界の奉仕をして貰っております。学院に行かれる前に少し合楽のご結界所謂神習ですね、神習せて頂いとかないけんと思って出来るだけ、ご結界の奉仕をして貰おうと言う気持ちでおります訳ですが、昨夜山田先生どうですかご結界の奉仕をさせて頂いて、どういう気持ちがしますかというてから尋ねました。
「もう有り難うして、有り難うして、感動のしづくめでございます」とこう言われる。そうですね、ご結界と言う所は、特別のお働きのある所に間違いはない、有り難うして有り難うして感動のしづくめだとこう言う。そこでね山田先生誰でもね、初めてご結界に奉仕を言われると、本当に身の縮む思いがしたり有り難うして、有り難うしてとは誰でも、一遍通りは言う事よと。例えば御神殿の内殿のお掃除なんかを言い付けられますと、初めの間は身がすくむごとある。
ところが段々馴れて来ると、平気で例えばエプロン一つせんなりひょこひょこ上さん上がっていく。いわゆるそこに神様を感じきらんようになる。それが大体人間なんだけれどもね、そこで山田先生あなたがご結界で有難うて、有難うてと言うておるのはね、それがいつ迄続くとは思われない。退屈して眠気がきて他の面白い本なっとん読むごと。ご結界になったらもうご結界の奉仕は、戦意を無くしたも同じ事なんだ。
なるほど今あなたが言う様に、ここに座っておる事が有難うして、有難うしてと言う気持ちを頂かせて頂く稽古をさせて貰わなきゃならんが、今はそういう喜びがあり感動があるのだけれどね、その感動をいつまでも頂き続けることの為に、信心の稽古がいよいよ必要なんだ。ここに座っておると言う事が有難い、いわゆる人が助かる事さえ出来ればと言う前に、先ず自分自身が助からねばならない。
助かっとかなければならないと言う稽古をさせて頂くと有難い。だから今の有難いと言うのは、実を言うたら、本当な有難いのじゃないのだと。本当に有難いのじゃない、実際に有難いのだから、感動して座っとるのだから。だから問題はそれを育てるのだと。合楽に、本気で一週間、例えば、お参りをさせて頂いたらね、もう誰だって絶対有難くなってくる。金光様の御信心ちゃ有難いなあと言うです。
いわゆる喜びの芽が出る。ところがそれは束の間本当に無惨にその喜びの芽は、摘み取られるような事に必ず出合う。だからそれを育てて行く事が大事です。生神とはここに神が生まれるという事である。有難うして有難うして、それこそ感動のしづくめ、それはもう、すでにそこに山田先生の心の中には、生神が宿っておられるのだ。有難うして有難うして、それなんです生神とは。
私が、何時も言う。ここ一週間、お参りして来ると、皆、一応有難うなる、確かに人相まで変わってくる、これはもう本当にそうです。どんなに心配があっても、どんなに心の中に人間関係で悩んでおっても、何とはなしに、表情が柔らかになって来るとです、有難くなると。ここに座っとらなければならんから座っておるんだと言うのでは、とても、辛うて辛うてたまらん。
私は今日、御神前で頂いた事は、楽と言う字をね、下に木の字が書いてある、それが小さく小さく書いてある。尚お願いさせて頂きよったら、その木と言う字が、段々だんだん大きくなって、丁度まあ釣り合いの取れた楽と言う字になった。そこで私の心の中に響いてくるもの。ははあ楽とは気が大きくなる事だと思いましたね。楽とは心が大きくなると言う事である、心の小さい人は絶対に楽にはなれません。
もう心からいつも、腹立っておりますからね、その問題が。いつも心配いつもいらいら、いつも許せない、いつもとがめておる、だから楽じゃない。だから楽とは心が大きゅうなる事。もう二十何年も前だったでしょうか。御本部に月参りをさせて頂いておる時に、北野の教会の先生と、あちらのご信者さんとご一緒でした。あれは何とかと言う写真屋さんでしたね、中村さん。北野の写真屋さん、何とか言いよったの。
ああ山口つぁんと言う、なかなか写真の名人がおられました。その方が一緒でした。それで金光様を写真に撮らせて頂きたいから、先生、金光様にそれを御願いして下さいと言うて言われました。そこで北野の先生が、写真を撮らせて頂きたいと思いますが、お許しを頂きたいと思いますという事を言われましたらね。金光様は「はい楽です」と仰った。そのお写真を私は一枚頂いておりますがね。
「はい楽です」とおっしゃた。ですからお届けをなさっておられてから、さあ写真を写して下さいと言うて、ポ-ズをとられる訳でも、構えられる訳でも何でもない。さ御自由にどうぞと言う訳なんです。いわゆるこうしていわゆるご自分の姿をそのままお写真に撮らせて頂いた。「はい楽です」と、全然問題ではない。大概の者ならこうやってポ-ズをとるところでしょうね、写真に写させて下さいと言ったら。
そのかわりにわざわざその事に姿勢をとらせるとか、とられるとか言う事でもない。どうぞ御自由にと。私は楽とはそういう事だと思いますね。それは困りますでもなければ、それはいやですでもない、と言うてそこに人間心を使う訳でもない。そういう様な心の状態に、どう言う様な信心から、その様な心が生まれておいでられたのであろうかと。今の此方がおかげの受け初めである、皆もその通りにおかげが受けられる、その通りのおかげが受けたい、それが私共の願いでなからなければいけない。
信心の稽古をさせて頂く者の願いでなくてはいけない。そこでです私共が言うならば、心の大きく豊かにならせて頂く稽古を、本気でさせて貰わなければならない、取り組ませて頂かなければならん訳であります。そこでいろいろな頂き方がある訳です。昨日午後から、佐田さん達が御一家で改まってお参りがありました。佐田さん方親子三人、それに弟さんの禎造さん方ご夫婦、お医者さんをなさっておられます。
九大に勤めておられます。ついこのごろアメリカに留学しておられまして三年間でしたか、帰ってみえられたところが、最近あちらから招聘を受けておられる。勿論今度は招聘を受けておられる訳ですから、給料も随分高くなる。で是非あちらに行きたいとこう言う。ところがこちら佐田さんの方としては、特にお母さんとしてはそんな遠方までやりたくないのが人情であります。ですから幾日も禎造がアメリカへ行くと言いよりますから、どうぞこちらに踏み止まりますようにというお願いがあっておった。
けれどもそこはまたお母さん自身も、信心で段々考える様になって、どこにまた御神意があるやらわからん、どこに禎造の幸せがあるやらわからないと思うたら、親の人情だけではいけない事に、段々気付いてこられた。昨日などは親先生のお言葉一つで、私も決心をいたしますと言う事であった。いわゆる禎造さん方ご夫婦も行きたい、けれども御神意を頂いて、いけないと仰るなら、また考え直しますと言う、禎造さんのご夫婦もその気持ちになられ、お母さんもその気持ちになられた。
やはりそういう気持ちにならなければ、本当のお伺いする事は出来ませんですね。お祈りさせて頂きましたらね、吊るし柿を頂いた。ほんに吊るし柿と言えば二三日前、熊谷さんが、綺麗な真っ白い白粉のふいたあれを持って来てあったなと思うてから、勝手の方へ参りましたら、もうお盆に、出すばっかりのごとしてから置いてありますから、それをお茶菓子かわりに出させて頂きながら、吊るし柿を頂くなんて、どういう事であろうかと思うてね、改まって御理解を頂かして貰うた。
そしてその吊るし柿を頂いてもらいながら、お話をした事です。佐田さんあのねあなた方がアメリカにお出られる、成程給料も良くなればまぁ楽になられる。勿論お医者さんの勉強もこちらよりも出来るかも知れない。けれども、これはちょっと時期をね暫く待たないけん。今あなたは九大なんかは給料が安いらしいですね、と言うのはどういう事かと言うと。丁度ね吊るし柿がねぶら下げられとるような時なんだと。
言うならばまだしづくがぼたぼたと落ちよる様な、言わば渋が抜けよる様な時なんだ。ですからこういう白粉をふく程の、砂糖がふき出して、白粉をふき出す程のおかげを頂く事の為に、今はあなたの渋が抜けて行く、いうならば人間的にも生長させて頂かなければアメリカ行きは駄目。お互い人間がいわば灰汁やら渋と言うのがありますよ、その渋が抜けて行った人の姿を、私は人物が出来た人だと私は思う。
あらゆるところを通らせて頂いて、通るところを通らせて頂いて、段々人間が出来て行く。今丁度あなたはね、言わば渋が抜けかかろうとしよるところだから、今の例えば給料が安いとか、条件がどうと言った事やらはです、今こそ渋が抜けよる時だと思うて、辛抱されるが、あなたの一生の上に、どの位プラスになるか分りませんよ。今すぐ楽にはなりましょう。お母さんもあのように、もう腹が決まっとられるのであるから、良い時ならすぐお許し頂く事であろうけれども、と言うてお話をしたんです。
先生それで腹が決まりました、とこう言うてアメリカ行きを止められたと言う事でございました。私共が今修行の真っ最中と言われるようなとこを通って居る人がいくらもありますよね。それこそ只今修行中ちいうわけなんです。そういう時にそれを苦労とせずに、今こそ渋が抜けよる時として、私は御礼を申し上げる姿勢がいると思う。吾心が神に向かうて行くというのはね、そういう修行がいるんです苦しいです。
今日、若先生が御祈念を奉仕させて頂いておる。どうも姿勢が悪い。こちらからそこに行こうごとある感じがする。本当に御神前に額ずかせて頂くと言うか、あそこへ出たらね、頭はもう、これ以上に下げられるならもっと下げたいと思いがするところです。けれども丁度手を支えたような感じで、棚からびきが座っておる感じですこげんしとるなら、手をついとるだけ頭を下げん。そういう時に心がですねちょっといらいらする、こと信心の事に関しては。私はいつの場合でもそうです。
けれどもその次の瞬間にですね、私から見る、若先生の姿勢が悪いけれどもです、神様がご覧になる私と言うものは、神様の前には、あのようなものではなかろうかと、私は思うた。そしたら勝彦の姿ぐらいの事じゃない、私自身も姿勢を正さなければならんなと思うたら、次の瞬間先生が御神前にぴたぁっとこう、頭をつけて御祈念するのですからね。若先生じゃないです、結局は私の姿なんです。そういう見方があります。
物の見方それは親が子供の姿を、親が見ればです目に余るような事もあります。注意の一つもしたい時もあります。けれども注意する前にです先ず自分自身の、私は姿勢を正さなければいけない。ほんならいつも高橋さんに言う事ですけども、職人がどうの小僧がどうのと、あんたは言うけれどね、その小僧の姿の中に自分の姿を見出しなさいて。私は生神に向かう道とはそう言う様な、私は日々であらなければいけない。
生神に向かう姿勢と言うのは。吾心が神に向かうて行くと言う姿勢なのです。そこには子供でもなければ店員でもない、家内でもない結局は私自身と言う事になる。そこから自他ともにおかげが受けられる道も開けてくるし、私の心はいよいよ神に向かうて行く事になるのです。そういう頂き方同時にやはり、色々苦い思いをさせられる事もあります。臭い思いをする事もあります。
それを私はいつも皆さんに聞いて頂きますように、苦い思いをさせて貰う時には、いまこそ心の胃腸が丈夫になるように、せんぶりでも頂きよる時と思いなさいと私が。そうするとね、成程苦いけれども楽です、苦いけれども有難いです、いよいよ心の胃腸は健全になります。段々健全になって参りますと、普通ならば苦い思いをする様な事でもです。それが平気で、いわゆる、楽に頂けるようになるのです。
臭い思いをする時には、今ニンニクでも頂きよる積りになりなさい。それが体全体の健全の基を下さっているんだと言う頂き方なのです、そう頂けたら楽です。今日は楽とは心が大きくなる事だと。私はね金光様のお言葉じゃないけれど、「はい楽です」と言えれる境地を目指さして頂く。言うならば自分の心の中に、全てが泳がせておれれると言う事です。二代金光様、四神様はね、大海には鯨が住もうがと仰せられた。
大海には鯨が住もうがと。竹の筒にはボウフラが湧く竹の筒に水が溜まった様な所で、もうおかげでもボウフラ位のものしか頂けんのです。それで自分は竹の筒に水が溜まったような心の状態でありながら、おかげだけはどうぞどうぞと言うて汲みよるおかげを願うたところで、頂けるはずはありませんよね。そこで私共がいわゆる大海の様な信心をさせて貰わなけれはいけません。大海には鯨が住もうがと仰せられた。
所が中々どうして私共の心は浅い深さがない。浅い所に大きな魚が住むはずもない。愈々深さを求める、愈々広さを求める。いわば日々のそういう稽古が繰り返しなされなければいけんのです。皆さん朝参りをなさる帰ると、まだ家族の者は寝ておると言った様な事がありますね、私自身がそうでした。バタバタバタと表戸を自分で開ける。そしてお掃除を始める、もう早う起きるごとバタバタいわせちから、そして起きらんともう俺はお参りして帰って来とるとぞと言わんばかりにしてガタガタする。
もう本当に何の為に信心の稽古に朝帰ったとじゃろかと、自分で思うごたるけれども。さぁ心が小さい時にはね、それが出来ません。自分が少し早起きすると他の者も一緒に早起きさせようと言った様な心になる。私はこれも最近の体験ですけれどね、朝私が先に起きます。さあもう時間ぞと家内と幹三郎を起こしよりましたけれどもね、もうこの頃は絶対に起こさん事にしとります。
むしろそっとしてからもう五分でも十分でも休ませたいと言う心が非常に強くなって来た。もう最近は絶対起こしません。それでも私が洗面して部屋に入りますと、幹三郎がもう起きる支度をしよります。起こされて起きるよりも、やはり自分が起きた方が、起きる者も気分がよい、又はほら起きらんかもう時間ぞと言うよりもです、言わんで済むなら、これ程楽な事はありません。稽古ですよやはり勿論、だからそこには内容として黙っているだけじゃない祈りがあります。
吾心が神に向かって行くと言う事、生神とは神がここに生まれると言う事であってとおおせられる。山田先生が二日間、ご結界の奉仕をさせて頂いて、本当に有難うして有難うして、感動のし続けだとこう言っておられます。けれどもそれは永くは続きません。ですからそういう、例えば心の喜びの芽と言うか、出たらそれを育てる事が必要なんです。育てる手だてと言うか、どのような場合でも楽ですと、楽だと言えれ思えれる、その手だてと言うものがです。今日私は幾つもいろんな例を以て申しましたね。
今こそ渋が抜けておる時だなと、御礼の申し上げれる心。どんなに苦い思いをさせられる時であっても、神様今こそ心が健全になる事の為のせんぶりでも飲ませて頂けておる時だと御礼を言うような心。願っておるおかげは大きなおかげを願っておる。それがこの様な小さい事が気になったり、この様な事を言わにゃたまらんごと成ったりする様な事では、まだまだ大きなおかげは願う資格は無いと知らなければいけません。
竹の筒に水が溜まっておるような信心だもの、これではいくら願うたっちゃボウフラ位のおかげしか頂かれんぞと悟らにゃいかん。そして大海を目指す信心もっともっと人間が深う広うならにゃいけん、という精神を惜しんではなりません。私共が瞬間的にです取分けお広前にお引き寄せを頂いて信心の稽古をさせて頂いて、有難いお話でも頂いておると、そうだなぁ有難いなあと、信心を頂いておると言う事は、本当に有難いと思いますね。色々な角度から有難いというのが湧いて来ます。
これはもう誰でも湧いて参ります。と言う事はです誰の心の中にも生神になれれる資格があると言うこれは実証なのです。磨いても磨いてもそれこそ身は鉄ならばである。時々は何とかの錆が出ると言った唄があります様にね。確かに自分はここはおかげを受けておるつもりで居るけれども又、いつの間にか自分が昔の自分に帰っておると言った様な事に直面する事があります。けれどもね是は私は御礼申し上げるべきだと思いますね。私はある方に申しました、それはあなたの心が豊かだからと私は申しました。
もしあなたの心が貧しかったり、言うなら不毛の地であったら雑草は絶対にはえませんよ。だから花も咲きません。どんなもの種を蒔いてもいわば心は堅い。もうどんなに素晴らしい話を聞いても、それを受ける心がない。言うなら不毛の地と同じ事なんだ。けれどもあなたの心にはいつも、はぁこげな穢い心がとか、又ここにこんな雑草が生えたとかいう事はもうすでにです、あなたの心は耕せば肥料を与えさえすれば、どの様な素晴らしいものでも育つんだと言う事ですから。
それはむしろ御礼を申し上げる事ですよと、先生そげな頂き方をするなら、私の様なものでも、おかげが頂かれますなあと言われるのです。これはまあ私共が失敗を繰り返しながらでもです、俺は駄目だ、駄目だというふうに頂かんでもです、そこを繰り返し、繰り返し、生えた草なら取らせて貰おう、肥料を施させて貰おうと言うところの繰り返し繰り返しの信心の稽古をさして頂く時です。
いよいよそこに豊かな言わば、どういう花でもどういう稔りでも、稔るおかげの頂かれる状態がだんだん育って参りましょう。どうぞ一つ私共がどういう場合であっても、「楽です」と言えれる心の状態を目指す事が、そのまま私は心の中にです、生神とはここに神が生まれると言う、いわゆる生神の誕生とでも申しましょうか、それを体験する事が出来るのであります。楽とは心が大きくなる事であると知らなければなりませんね。
どうぞ。